揺れない心 〜Serene Hearts〜
『揺れない心』を持つ人間になりたい。 2005年に急性骨髄性白血病を発病、骨髄移植の後に社会復帰を目指すも、敢え無く2007年初に再発、再移植。GVHDと格闘の日々を綴ります。
★。:*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜Thanks 200,000 HIT (16th Aug. 2007)★。:*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜
☆。:*:。:・'゜Thanks for the NEW RECORD 1,763 HIT/day (11th Mar. 2008)★。:*:。:・'゜
この度は『揺れない心 〜Serene Hearts〜』へお越し頂き、誠に有難う御座います。
当Blogは白血病・骨髄移植・骨髄バンクに関する正しい知識を皆で共有する為に開設したものです。
初めての方はまずこちらをお読み下さい。今後とも宜しくお願い申し上げます。
2006年8月7日/管理人

【訪問者の方々へ】
管理人と直接絡むには こちらまで直接メールを!気軽なダメ出しを待ってます。
2007年3月5日/管理人

久々の新規コンテンツです。掲示板を作ってみました。 ゲストブックでの教訓を背景に、今回こそは皆で気軽に相談できる場が作れることを期待しています。誰かがアナタの知識を必要としてるはず。遠慮無く胸の内をブチまけていって下さい。入り口は左メニューバー下部、またはこちらから。
ゆれここ掲示板へ

2008年3月6日/管理人
中島忠幸氏へ捧ぐ
昨日午前11時46分、お笑いコンビ、カンニングの中島忠幸氏が他界、
また一人、病魔により志半ばにして若き才能がこの世を去った。

2004年12月に急性リンパ球性白血病を発病。
化学療法によって今年8月には寛解を迎え退院したものの、
合併症で肺炎を併発しての逝去。

発病9ヶ月前に結婚、その半年後には長男翔太君が誕生し、
カンニングも売れ始め、いよいよこれから人生の絶頂へ向けて
走り出そうとしていた矢先の出来事。

発病してからの2年間、治療の過程で想像を絶する苦難を乗り越えてきたはず。
医者の100%治る!!を励みに、再び芸能活動の最前線を目指し・・・。



2年間、本当にお疲れ様でした。ご冥福を心より祈念申しあげます。
【BRAVE STORY】本田美奈子編(番外)
今回のBRAVE STORYは番外編で本田美奈子さんをお送りします。



昨年11月に亡くなられてからもうすぐ1年が経とうとしてますが、
2005年12月16日の記事で簡単に紹介させて頂いた「あの曲」。
実は1周忌を迎える今年の11月にシングル盤が発売される予定です。

曲名は『wish』。願い、希望、祈り、祝福の言葉。
この楽曲を手掛けるのが音楽プロデューサーの井上鑑と、
彼の呼びかけに賛同した福山雅治をはじめ日本を代表するミュージシャン達が
参加したプロジェクト、『井上鑑 & M.I.Hバンド』である。

実は8月27日にテレビ東京で放送された『ソロモン流』という番組で、
この井上鑑氏の特集がされており、そこで本プロジェクトに関しても紹介があった。
訪問者の方のご協力により本件を知った管理人(てか見逃すなよ・・・って話ですが)、
慌てて様々な方のご協力によって無事放送された番組のビデオを入手できたので、
今回本田美奈子さんのBRAVE STORY本編に先立ち番外編として記事化するに至りました。



本田美奈子さんの楽曲を編曲担当することから出会った井上鑑氏ですが、
昨年の本田さんの闘病生活中で、「復帰第一作として詩を書きたいから曲が欲しい」
という本田さんの強い希望から、井上さんが作曲をし、
作曲当時福山雅治さんのツアーに同行中であったことから、
ツアーメンバーと共にデモテープを作成して、
入院中の本田さんに送ったことがこの『wish』のはじまりでした。

病室でデモテープと映像を見た本田さんは嬉しさの余り大泣きしたそうです。
しかし残念なことに本人は詞をつけること無く他界されてしまい、
コピーライターの一倉宏さんが、彼女が病床でノートに書きとめたコトバを集めて曲に詞をつけた。
一倉宏さんって言えばナショナルの「キレイなお姉さんは好きですか?」
サントリーの「うまいんだなっコレが!!」等で知られる一流のコピーライターです。

『ソロモン流』ではこの歌のサビの部分のレコーディング風景が放送されていたので、
ちょこっとだけココで歌詞をご紹介。



作詞:本田美奈子・一倉宏/作曲:井上鑑

あたりまえに来る朝も  光る海も雨の街も
あたりまえのことなのに  かけがえのない日々
ただ抱きしめて  いまそこにあるその幸せを




井上鑑 & M.I.Hバンド  メンバー

Keyboard:    井上鑑
Drums:        山本秀夫
Guitar:        小倉博和、鎌田ジョージ
Bass:         美久月千晴
Percussion:  三沢またろう
Saxophone:  山本拓夫
Trumpet:     西村浩二
Trombone:   村田陽一
Violin:        金原千恵子
Vocal:        坪倉唯子、高尾直樹、福山雅治



あと2ヶ月で発売予定!!注目下さい。
作成された経緯は忘れられても、皆の記憶に残る歌であって欲しい。
これが井上鑑さんの願いです。



最後になりましたが、番組放送内容を連絡下さったCKサン、
並びにビデオが見たい!!という管理人のワガママに快くご協力下さった
テレビ東京関係者の方々に深く御礼申し上げます。



以上

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【BRAVE STORY】吉井怜編(4/4回)〜未来へ〜
第4回/編集後記(管理人所見)

長い文章(特に2/3回目)にお付き合い頂き有難う御座いました。
その前に、まだ過去の記事を読んでない人はちゃんと戻って下さいね。
ここを先に読んじゃうと思いっきりネタバレするんで要注意。
第1回/吉井怜さんをご存知ですか?
第2回/白血病との闘い〜前編〜
第3回/白血病との闘い〜後編〜



彼女の手記、『神様、何するの・・・』はこんな文面で幕を閉じている。

言葉にするととても妙な感じかもしれないが、
私は今、白血病になったのが自分で良かったと思っている。
失ったものは大きいし、それらの多くは取り返しがつかない。

それでも、私で良かったと思っている。

家族でなくて良かった。親友でなくて良かった。大切な人たちでなくて良かった。

私は彼らのように、病気になった人間を強く支え、励ましたりできるだろうか。
できそうにもない。

恐らく悲しすぎて何もできないだろう。
かける言葉も見つからず、ただ嘆くだけのはずだ。
私は弱い人間。それは病気の後でも変わらない。

今はとにかく、みんなに健康でいてほしい。心からそう願っている。

思い返せば私は、誰かについて「願う」ことがあまりなかったかもしれない。
いつも私が私としてあること、タレントとして成功することばかりに気を取られていて、
ほかの誰かが、私の周りで呼吸をして、生活しているということを忘れてしまいがちだった。

私がほかの誰かではなく私であり、ほかの誰かが、その人であるということが、
とてもかけがえのないことだと思える。

これもやはり、病気を経験したからだろうか。

移植手術の入院を終えたとき、
これからは、何が起きても負けないで乗り越えていける気がしていた。
強くなった気がしていた。

「吉井怜」として、階段をやっと上り始めた矢先に病気になって、
すべての光が遮断された檻に閉じ込められたような、絶望感を味わった。
どれだけ希望の言葉で自分を支え続けても、投げ出したくなるときもあった。

それでも、諦めずに「あと少し、もう少し」と、
ただひたすらに起きあがってきたら、いつの間にか少しずつ前に進んでいた。




自分で踏み出した芸能界への道。
全てが順調と思われ、一歩一歩スターへの階段を歩んでいた彼女を襲った突然の病魔。

18歳という多感な年頃で突然閉ざされた自分の夢描く「道」。



周囲を心配させまいと気丈に振舞う彼女。不安な気持ちを誰にも話せないまま抱え込む彼女。
一番近くで見守ってくれる母親。
その母親にさえ素直に甘えることが出来ず、時としてその優しさを嫌がる素振りも見せてしまう。

いつだって一番甘えることのできる存在に対して、人は一番ワガママな一面も見せてしまう。
本当に辛い時、辛いが故に素直になれない。
そんな素直になれない自分へのもどかしさが、時として辛さを更に助長させる。



母親との奇跡的なHLA型の一致。

自分の娘が病床に伏すこととなったとき、
家族、特に母親は先ず『自分の無力さ』を痛感すると思う。
『自分に何かしてあげられるコトは無いんだろうか・・・』
『娘でなく、自分が代わってあげられたらどんなに楽か・・・』
こういったことを考えるのが母親で、きっとオレの母親も同じようなコトを考えただろう。

そんな中で自分の骨髄を提供することによって娘が助かるとわかった時。
喜びで涙が溢れたに違いない。
きっと言葉にはとても表現できないような感謝の気持ちがあったはず。



しかし移植を拒絶する当時の愛娘。
ここでは吉井怜本人よりも、母親の心情が自分には印象に残った。



無知であることの幸せ。
事実を知らずに走って来た5ヶ月間の入院生活。
知らないからこそただ前向きに歩いてこれた。
この気持ちは時としてチカラとなるが、諸刃の剣として一度挫けた際は容赦なく精神を蝕む。

退院後のマスコミによる報道を耳にした瞬間。
これが彼女の中で一つの大きな転機となったんだと思う。
生への執着は全てを知り受け容れた時に初めて芽生えるもの。

女優として、その以前に一人の女性として、
10代の少女が大きな一歩を踏み出した瞬間だった。



このまま維持療法を続けていいのか?
本当に骨髄移植をしなくていいのか?

これは白血病患者の誰もが直面する現実に立ちはだかる高い壁だと思う。
当然骨髄移植はHLA型が一致するドナーあっての処置方法ではあるのだが、
移植に伴う長期の入院、前処置の副作用、そして移植後のGVHD。
これらに対する医師の事前説明は正直恐怖に近い感覚を憶える。
本当に選ぶべき道が移植であると理解していても躊躇してしまう。
自分も辿ってきた同じ道だからこそ、彼女の葛藤が痛いほどリアルに伝わってきた。

確率論で言われてしまうとどうしようもないのだが、
そう言いつつも「個人差」という見えない領域の存在感が大きすぎて、
最後に頼れるのは自分の意思・決意だけという究極の状態。
そして、その自分の選択が「生」と「死」を左右しかねない。

日常生活では到底経験し得ないこの選択が、また一つ彼女を大きく成長させた。
日を追うごとに一人の人間として成長を続ける「吉井怜」が手記からも伝わってくる。



最後に移植へと踏み出させるキッカケを作ったのもやはり母親だった。
母娘の繋がり・・・美しいねぇ。
記事を作りながら、本を読み返しながら、情けない話だけど何度も泣いてました。

放射線治療の副作用としての「不妊」。
やはり特に女性にとっては絶大な抵抗感があると言わざるを得ない。
けど自分にとって、そして家族にとって何が一番大切なのか。

それは生きること。

もし将来好きになった相手が、そんな理由で自分の元を去ってしまったら。
そりゃ考えるだろうけど、そんな小さな男なんてこっちから願い下げでいいと思う。
「不妊」な自分を引っくるめて好きになってくれるような男。
そのくらいの器の大きさでないと、難病を乗り越えて逞しい成長を遂げた女には似合わない。
彼女にもそのような相手が現れることを心から祈るばかりである。
(って余計なお世話っすね・・・すんません(^ー^;Aアセアセ )



入院生活が長期に亘るのが白血病。
その間、彼女も綴っているが「一人になれる」場所が正直まったく無いと思う。
彼女は移植後、退院してから一人になれる時間・場所を必死に探していた。

実はオレの場合は、移植前にどうしても一人で色々と考える時間を作りたくて、
一時仮退院をした時に実家にいればいいものの、
一人暮らしの自分の部屋に3日程こもって色々と考え事をしてた時期があった。
ちょうど今年の1月末くらいだったろうか。

過去の自分を振り返ってみた。
そして未来の自分を想像してみた。
自分が移植を受けたらどうなるんだろうか。
本当に移植を受けていいんだろうか。
この年でいまさら、改めて生まれ変わるってのはどんな感覚なんだろうか。
新しい自分は何ができるんだろうか。
新しい自分は何をするんだろうか。

こんなコト、考えたって結論なんか出るはずないのに・・・
考えれば考えるほど恐怖感が増幅するだけなのに・・・
まあ色々と自分なりに、自分を正当化する為に、自分の決断を後悔しない為に。
何かが変わったってっていう実感は然程無かったものの、
一人になる時間を作れて、自分の気持ちの整理は出来た上で移植に臨めたと思う。



決して勘違いしてもらいたくないコトがある。
確かに骨髄移植は白血病に対して有効な治療法の一つであることは間違いない。
しかし、骨髄移植を実施してからが、実は本当の試練の始まりでもある。

ドナー由来の骨髄液が生着するまで。
前処置で使用した抗癌剤等の副作用が抜けるまで。
そして急性GVHD、慢性GVHDと襲い来る拒絶反応。
オレも見事に慢性GVHDから来る肝機能障害に打ちのめされて、
一度は果たした社会復帰も1ヶ月で幕を閉じ・・・。
移植を行ったその日からも、白血病との共生がはじまったに過ぎないのだ。
先ずは完治の目安とされる“移植後5年”の日を迎えるまでは・・・。



吉井怜さんは今年2006年の7月11日をもって、
白血病完治への大きなステップとされる、“移植後5年”を無事乗り切った。
彼女のオフィシャルブログにも、前回紹介した詩と共に報告がされている。
これからの彼女の更なる活躍を祈念すると共に、
入院中の同胞の皆様はもちろん、退院して日常生活に戻った全ての同朋に、
もちろん自分自身に対しても、心からエールを送りたいと思う。
彼女に続けるよう、頑張っていきましょう。



最後になったけどここで一曲、まさに彼女の為に作られたんじゃ??
って思わず耳を疑ってしまうような歌を紹介します。
皆もよ〜く知ってる歌だと思うけど・・・Kiroroの『未来へ』。
入院中、そして退院してからのオレを勇気付けたのは前にも紹介した、
ゆずの『栄光の架橋』だったけど、この歌も皆に送りたい応援歌の1つです。



CDを持ってる人は用意して下さい。
持ってない人はレンタル店へ直行して下さい。
歌詞を読みながら聞くと、ホント泣けるんで・・・。




未来へ(作詞/作曲:玉城千春)

ほら足元を見てごらん これがあなたの歩む道
ほら前を見てごらん あれがあなたの未来

母がくれたたくさんの優しさ 愛を抱いて歩めと繰り返した
あの時はまだ幼くて意味など知らない
そんな私の手を握り 一緒に歩んできた

夢はいつも空高くあるから
届かなくて恐いね だけど追い続けるの
自分の物語(ストーリー)だからこそ諦めたくない
不安になると手を握り 一緒に歩んできた

その優しさを時には嫌がり 離れた母へ素直になれず

ほら足元を見てごらん これがあなたの歩む道
ほら前を見てごらん あれがあなたの未来

その優しさを時には嫌がり 離れた母へ素直になれず

ほら足元を見てごらん これがあなたの歩む道
ほら前を見てごらん あれがあなたの未来

ほら足元を見てごらん これがあなたの歩む道
ほら前を見てごらん あれがあなたの未来

未来へ向かって ゆっくりと歩いて行こう



尚、本文中の表現は抜粋部(斜字)を除き
管理人の個人的な感想を主としております。
表記方法に問題がある場合は対応させて頂きますのでご一報下さい。



以上

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【BRAVE STORY】吉井怜編(3/4回)
第3回/白血病との闘い〜後編〜

ちょっと間が空いてしまってすみません。連載第3回目です。
過去の2回を読んでない人は先にお読み下さい。
第1回/吉井怜さんをご存知ですか?
第2回/白血病との闘い〜前編〜

第2回までで、告知から寛解導入後の一時退院(2000年12月)までを紹介しました。
今回は一時退院後の生活から骨髄移植を経て芸能界に復帰するまで、
2000年12月から2002年8月までを紹介させて頂きます。

奇跡的に母親とHLA型がフルマッチしたにも関わらず、
芸能界への復帰を優先するが故に移植を拒否した彼女。
揺れ惑う思いを抱えながら半年に亘り3クールの維持療法を続けるも、
母親の記したノートをきっかけに、遂に骨髄移植を決意する。
前処置の壮絶な副作用との闘い、移植後の日々で思うこと。
何かが彼女の中で大きく変わっていく様を、どうぞご覧下さい。

尚、本文中で斜字表記されている箇所は前回同様、
彼女の手記『神様、何するの・・・』からの抜粋です。
様々な局面における彼女の心情描写が表現された箇所と思い、
独断と偏見で引用させて頂いております。



12月27日(水)
退院後1週間経過、初めての外来診察による経過観察。
主治医より、移植を受けるか悩んでいるのであれば・・・と
B病院の移植専門医との面談を薦められる。
(当時通院していた病院では移植は実施していなかった)



<1度目の維持療法入院>



<2度目の維持療法入院>



2001年4月2日(月)
主治医に紹介されたB病院の移植専門医と面談。
淡々と移植の成功率、完治する確率を数字で説明される。
今の寛解状態で移植をすれば60〜70%の確率で完治、
但し再発後の移植では10〜15%まで低下。
また現状の維持療法を継続した場合の完治率は僅か30%とのことであった。

その後に前処置・骨髄移植の具体的な手法について、
また移植後にはGVHD(拒絶反応)や、不妊といった問題・障害が残ることの説明あり。

医師からストレートに言われたことがショックで黙り込んでしまう。

いつかは心の底から愛せる人と出会って、子供を産み、
どんなに子育てで大変なことがあっても、
好きな人と一緒に乗り越えてけるような母に、自分はなれると信じていた。
それなのに、「不妊になります」
この、たった一言だけで、私の将来を打ち砕いてしまうなんて、いくらなんでもひどすぎる。




<3度目の維持療法入院(4月中旬〜)>
移植をするかしないか、気持ちは固まらないままに3クール目の維持療法に突入。
周囲の意見は揃って「移植すべき」であったが、最終的に決めるのは本人であり、
具体的な数字をB病院の専門医に並べられてからは日々迷走が続いていた。

どうすればいいの?どうして私の型は、化学療法でも完治する確立が30%あるの!
それなのにみんなは移植手術しかすすめない。どうして?
移植手術でしか治らないのだったら、今すぐ踏みきれるのに。
どうやって自分で決めればいいんだよーーー!


GVHDの発症によって芸能界復帰が不可能となる可能性。
移植をしなかった場合は確実に仕事には復帰できるが、その後万が一再発した際は・・・。
本当は移植を選んだ方がいいのは自分でも理解していながら、
GVHDや不妊がその後の自分の人生に及ぼす影響を考えれば考えるほど揺れていた。

そういった状況の中で、同じ病気で闘うOさんが同じく維持療法のため入院してきた。
自分の悩みをOさんに打ち明けたところ、自分が心から信頼できる先生と出会えるまで
探したほうがいいと言われる。
この時、彼女の中で気持ちが移植へと大きく傾いた。
そして再度主治医の紹介により、1ヶ月後に横浜のがんセンターの先生とアポを取る。



2001年5月下旬
横浜のがんセンターへ。
前回のB病院とは異なり、非常に丁寧な対応・説明を受ける。
移植をする方向で自分の中でも決意が固まりかけていたのだが、
ここでは再発後に移植をしても完治の確率はあまり変わらないとの説明。
やはり未知の領域であり、医師によっても見解は異なるのだが・・・
移植の決意がここで再度揺らぐことになってしまう。
移植をせずに維持療法を継続することで
白血病と闘っていくことを、改めて考え直す結果となった。

諦めきれない未来の子供との出会い。
B病院ではアッサリと「不妊になります」の一言で切り捨てられたが、
ここでは不妊の事実を苦しそうな表情で伝えてくれた。
それが逆に不妊という意味の重さを改めて実感させてしまう結果となる。

今すぐじゃなくたって、将来、子供を産むか産まないかは別としたって、
私は、子供が産めなくなることが、本当は怖くて、寂しくて、辛かったんだ・・・。




その後は吹っ切れた気持ちで日常生活に戻った彼女であったが、
やはり冷静に自分の状況を考える余裕が生まれてくると
自分の決断が本当に正しいのかどうかわからなくなってくる。

もしも再発したらどうなるのかな?
そのとき、おかあさんの体調が悪かったら、骨髄移植はできないかもしれない・・・。

最終維持療法の寸前で再発してしまったら・・・私は後悔しないのかな?
私の体には爆弾があるんだよ。いつ壊れるかなんて、誰にもわからないんだよ。

もしかして、骨髄のタイプがおかあさんと一致したのは、
神様が私の「生きる道」をもう一度作ってくれたのかもしれない。
それなのに、移植手術をやらなくて、本当にいいの?




ある日、母親が過労で突然倒れ入院することとなった。
彼女が発病してから1年間、毎日2時間かけて病院へ通い、
家事をこなしながらも彼女のことを思い続け・・・体力の限界だったのだろう。
その時彼女は兄から、母親が大事に書いていたという日記を渡された。
以下はその一部の抜粋である。

『・・・怜が突然ロケ先で倒れたと聞く。本当に心臓が止まるかと思った・・・』

『白血病・・・!?どうしてあの子が・・・!?』

『変われるものなら変わってやりたい 私の命で助かるのなら・・・』

『私の命を持っていってください・・・』


ここで彼女の中で再び大きな心境の変化が生じる。

私はそれまで・・・“自分の命”というモノしか考えていなかった。
だけどそんな自分の命が実は親からもらったモノで、
そしてそれをまた誰かに渡してゆく。
そんな・・・大きな“命”をその時初めて感じた・・・。


以下は入院中の母親の病室での2人の会話の抜粋。


怜:「移植を受けたら・・・私・・・子ども産めなくなっちゃうよ・・・
      お母さんも・・・孫を見れなくなっちゃう・・・
      お母さん・・・それでもいい・・・?」

母:「当たり前じゃない・・・お母さんは怜がいてくれればそれでいいの。
      それにね、たとえ子どもが産めなくなっても・・・怜は怜でしょ・・・?
      怜にしか残せない何かを残していけるんじゃないかな・・・?」

怜:「お母さん・・・私・・・お母さんの骨髄・・・もらっていいかな?
      もう一度お母さんから・・・命をもらってもいいかな・・・?」

母:「仕方ないわね・・・私の娘だもんね・・・」



彼女の中の決意が固まった瞬間である。



6月20日
移植のため横浜がんセンターに入院する。投薬治療の開始。



2001年7月2日(月)
前処置開始。3度目のCV(カテーテル)を鎖骨下から挿入。
この日から愈々移植に向けて様々な検査が開始された。

予想以上の副作用に苦しむ。24時間気持ち悪さは消えず、
少しでも飲み物をとると1時間もしないうちに全部吐いてしまう。
動くと吐き気が襲ってくるからなるべく横になるが、
寝返りをうつだけで気分が悪くなり、また吐いてしまう。

自分はとてつもない病気と闘っているんだ、と改めて思った。



7月9日(月)
放射線治療の開始。
抗癌剤、放射線治療の影響で肌の色素沈着が進行。
感染症を防ぐ為にも毎日シャワーを浴びる必要があるのだが、
シャワー室内の鏡に映った変わり果てた自分の顔を見て・・・

あはは、ブサイク〜。ひどい顔・・・ひ・ど・い・カ・オ!
アンパンマンが焦げちゃったみたいだよ〜。ジャムおじさ〜ん、新しい顔がほしいよぉ。
アンパンマンみたいに、こんな壊れた顔をあっという間に交換できたらいいのに・・・。


なんて笑いながらも、涙がこぼれてきた。

とにかく今を乗り切ろう、この一分一秒を乗り切っていけば、
いつかは元気になることができる・・・そう自分を奮い立たせた。

悪い方向に考え無いこと。考えなきゃ、副作用だってひどくは出ない。
これから出る副作用なんて、出たときに考えればいいんだし、きっと大丈夫!
要は気持ちの持ちようだ!と、自分に何度も言い聞かせながら、副作用に耐え続けたのだ。




7月10日(火)
翌日の骨髄採取の為、母親も同じ病院に入院する。
副作用で朦朧とした意識の中で、病室まで来てくれた家族の姿もかすんでよく見えない。
その内眠りについてしまい、気がつくと既に部屋には誰もいなかった。
すると枕元に3枚のメモ用紙があるのに気付く。家族3人からの手紙だった。

『<怜が見たら情報!>7月9日 暑い!今日はよく頑張ったね。あと1日と半分。
早くかあさんからチカラをもらえたらいいね!!とうさん』

『明日から一つ屋根の下。よろしくね!放射線治療もあと少しだよ 母』

『<兄情報!>D503iの赤を買ってしまった。かっこイーーー!!
レアなので大切に保管するぞ。プレミアもんです。
まぁ、退院するころにはさわらしてあげましょーーー。わっはっはっはっ。がんばってな〜』


不安な気持ちを吹き飛ばそうと、三人からの手紙を何度も読み返した。

そして、その日の日記にはいつもより長めの日記が書かれている。
既に放射線治療を受けた為、不妊となってしまっていながらも、
やはり生まれてくるはずであった自分の子供のことを考えていた。



<まだ出会っていない、未来の赤ちゃんへ>

お腹に宿すことも、出来なくてゴメンネ。
いろんな空の色や 周りの景色を見せることができなくて、ゴメンネ。
生まれてくるとしたら 何人きょうだいだったのかな?
男の子? 女の子?

子どもで、自分勝手なママでゴメンネ。
ママは、自分が生きる道を選んだよ。 だけど、これからも、一緒に生きていくんだよ。
あした、私は、母から二度目の命を授かります。
その命には、母と私と、そして あなたの命が含まれている気がするんだ。
私は、一人じゃないんだね。
母とあなたから命をもらったんだから、こんなに強い力はないよね。

こんな私を、助けてくれてありがとう。
もしも、この先、逃げ出したくなっても、辛いことがあっても、負けないから。

私の体の中で、私の心の中で、
あなたは永遠に生きているから。
一緒に生きているから。
だから、力をください。 弱い私に、あなたの力をください。
これから、待っている どんな副作用にも負けないから。
頑張ってくるから。乗り越えるから。
愛してるよ・・・・・・ ずっと、ずっと愛してる。
ありがとう。




7月11日(水)【移植日当日】
午前中に最後の放射線治療を終わらせ、無菌室へ移動する。
その間、母親は別室で骨髄採取中。

一旦入室してしまうと簡単には外に出ることのできない無菌室。
個室の特権とも言うべき専用電話が用意されているが、誰かと話す気力も起きない。

電話機さん。なんだったら、一緒に寝ますか?

移植直前、昨年入院していた病院の主治医が急遽様子を見に病室へ登場。
ずっと初期からお世話になっていた主治医だっただけに、
嬉しさのあまり、直前にも関わらずはしゃいでしまう。

先生が来てくれなかったり、一人でほうっておかれたりしたら、
考えなくていいことまで考えてしまって、
手術への不安で体がガタガタ震えていたかもしれない


そしていよいよ午後5時、骨髄移植開始。

骨髄液が私の腕に少しずつ注入されているのを見ながら、
別の病室で休んでいる母を思い浮かべた。どんなときも付き添ってくれていた母。
自宅から病院まで往復で二時間もかかるのに、一日も休まず付き添ってくれていた母。
気持ちが荒れまくって、勝手なことばかり言っていた私をいつも温かく包んでくれた母。
その母の骨髄が自分の中に入ると思うと、体の中から母が守ってくれているような気がした。


50分間で無事骨髄移植終了。

そのとき、初めてぐっと胸に込み上げてくる何かを感じた。
一緒に生きていこうと決めた、未来の赤ちゃんが命を授かった瞬間・・・そんな気がした。




7月23日(月)/Day12
移植後11日間の記憶が完全に抜け落ちる。
移植後には治まると思っていた吐き気もひどくなるばかり。
水を飲んでもすぐに吐き出してしまうため、水も薬も怖くなってくる。
胃の中が空になって何も出てこないのに吐き続け、息ができない程の苦しみ。
吐きすぎて食道が切れてしまい、血が混ざる。
それでも治まらず、そのうち赤黒い血だけを吐くようになっていた。

移植前は食べ物を見ると気持ち悪くなっていたが、移植後は匂いだけで吐き気が襲ってくる。

吐き気も辛かったが、体力が落ちると気力も落ちる。
気力がなくなると白血病に負けてしまうようで怖かった。
だから、一つでも良くなっている部分を探し続けていた。


前処置の抗癌剤治療の副作用から、髪の毛が抜けはじめる。
抜けるというよりは、シャワーの水と一緒に流れ落ちるといった感じ。
どうせ抜けるならと自分で抜いていくも、何故か耳の上の髪の毛だけは中々抜けず、
他の髪が全部抜けても何故か一部分だけ残っていた。

この残っている毛というのは、いとおしくなるもので、
髪の毛の薄い人が、無理やり一九分けにしている気持ちがよくわかった。
髪の毛が抜けている間は、病室のゴミ箱に山ほど髪の毛を捨てた。
さすがに、それを見るのは辛かった。




7月27日(金)/Day16
初めて味のあるものを口にする。りんごジュースを15cc。

こんなにおいしいの!?



8月中旬
友人の裏切りをきっかけに、すべての人間関係から解放されたいと思うようになる。

誰も信じられなくなっていたし、
また、病気になってみんなに迷惑をかけている自分も嫌になっていた。

誰にも邪魔されず、一人っきりになりたかった。

病院では毎日、先生や看護婦さんと必ず言葉を交わさなければならない。
常に、誰が来るか、いつ来るかという意識が消えなくて、気持ちが休まるときがなかった。

もう、我慢の限界にきていた。こうなると、自分の感情がコントロールできない。
早く、本当に一人だけになれる居場所を作って、壊れてしまった感情を調整したかった。




その後、予定より少々早く退院できたものの、制限だらけの日常生活に解放感を味わえない。

不自由になっても、それを我慢するのが家族の愛で、
協力し合うのは当たり前って言われたらそれまでなんだけど、
自分も家族に気を遣っているし、家族は私よりももっと気を遣ってくれている。
家族が気を遣ってくれればくれるほど、周囲をわずらわせているという事実を突きつけられた。

ホント、私って自分勝手だよね。

でも、急には大人になれなくて、嫌な性格だとわかっているけれど、直せない。
こんなに私のことを心配してくれているのに、
それを重荷に感じてしまう自分が許せなかった。
自分の家なのに、家族なのに、どうしてだろう。

特別扱いをされていることが、一秒も、病気を忘れさせてくれなかった。




退院してしばらくは定期的に通院・検査をすることが必要だった。
母親がドナーだったので移植の生着もスムーズで、GVHDも一般のケースより極端に少ない。
幸い彼女は外見上のGVHDは何も発症せず、ドライマウス程度で済んだ。

しかし一方で退院してからも人間関係の悩みは絶えず、息苦しさにつきまとわれていた。
そんな時、マネージャーが彼女を外に連れ出し、色々と話をする場を作ってくれる。
徐々に彼女の重い口も開いていき、人間関係に疲れたことを告白する。

その瞬間、彼女の中で溜まっていた心の澱が一気に噴出して息が続く限り喋り続けた。

思いっきり空気を吸い込んだら、心の中の葛藤や悩みや、
自分にまとわりついていたさまざまなものが、すぅーっと消えていくような気がした。

白血病にかかって、命を落とす瀬戸際までいったけど、やっぱり私は生きている。
(生きてて良かった・・・)
初めて心からそう思うことができた。
そして、「生かされている」という自分に気づいたのだ。

愛されていない人はいない。
ただ、愛が当たり前になって、欲深くなって、
もっとたくさんの愛や、愛されたい人から愛されなかっただけで、孤独を感じてしまう。
だから、自分が生きている意味なんてないように思ってしまうのだ。
だけど、それは違う。
生かされているって、もっと、もっと大きな“何か”から守られているのだと思う。
私が白血病を乗り越えられたのは、その“何か”に選ばれ、守られ、生かされたからだ。

“何か”って神様なのだろうか。最初は捨てられたと思っていた神様に、
私はもう一度生きるチャンスを与えられたのだろうか。

本当のことは私にはわからないけれど、ようやく私は生きているって実感できた。
そしてこのときが私の本当の退院だったのだ。




そして2002年8月24日・・・最初の入院日から764日後・・・
彼女は奇跡的な復活を遂げ、芸能界へと復帰した・・・。




第4回/編集後記(管理人所見)へ続く



尚、本文中の表現は抜粋部(斜字)を除き
管理人の個人的な感想を主としております。
表記方法に問題がある場合は対応させて頂きますのでご一報下さい。



以上

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【BRAVE STORY】吉井怜編(2/4回)
第2回/白血病との闘い〜前編〜

連載第2回、ここでは吉井怜さんの闘病生活の中で、
発病から寛解導入、一時退院に至るまでの、
2000年7月から12月までの状況、心境変化等を紹介します。

芸能界入りして4年が経過した18歳の夏、
仕事もプライベートも順風満帆で走り出していた
彼女の青春時代に突如襲い掛かった病魔。
5ヶ月間に亘った入院生活、抗癌剤・副作用との闘いの日々。
多感な年頃にあった彼女が
入院生活を通じて何を感じ取ったのか。

様々な本音が綴られていました。
本文中で斜字表記されている箇所は
彼女の手記『神様、何するの・・・』からの抜粋です。
様々な局面における彼女の心情が適切に描写された箇所と思い、
独断と偏見で引用させて頂きました。



2000年
7月21日(金)


吉井怜、当時18歳。
グラビア・カレンダーの撮影で奄美大島ロケ中。
ロケ前から体調不良の自覚症状は感じていたものの、
朝、突如40度を超える高熱発症し、
現場付近の病院へ搬送される。

血液と心臓エコーの検査後、病院から点滴を勧められるも、
グラビア撮影という仕事柄、点滴は顔がむくんでしまう
という理由で仕事を優先するが為に拒否。
朦朧とする意識の中でプロ意識を見せる。

しかし結局撮影は中止され、夕方には奄美大島から帰宅。
夜中に突如痙攣と寒気を訴え、その直後には熱気を訴える。

何かが私の体の中で、確実に狂い出している。



7月22日(土)

夕刻になりまたもや40度を超える高熱と共に、
大量の発汗と発咳を発症、月曜に予約を入れていた
横浜市内の病院へ急遽救急外来で運ばれる。

即日検査入院。
週末の為詳細検査を行うことが出来ず、
週明けから精密検査を始めることとなった。

私は自分の病気を甘くみていた。
このときがいちばん辛くて、
あとは楽になるだけだと思っていた。




7月24日(月)

週明け、精密検査の開始。
父親経由で長期入院が必要であることを知らされる。
週末予定されていた『桃の天然水』のCMを含め
レギュラー番組の撮影もキャンセル。

私は大声を出して、泣きじゃくっていた。
人の目ばかり気にして弱みを見せることが
嫌いだったはずなのに、私は声をあげて泣き続けた。

(どうしよう。私のタレント生命が終わっちゃうよ・・・)

泣きながら頭に浮かぶのはそれだけ。
もう、ほかには何も考えられなかった。

その間も両親はずっと側にいてくれ、
顔をぐしゃぐしゃにして泣く私の手を
ただ黙って握っていてくれた。




7月25日(火)

本格的な入院生活へ突入。初マルク(骨髄穿刺)実施。
急性骨髄性白血病の告知が家族に対して成された。
家族の意向から本人には正式な病名は伏せられ、
骨髄造血不全症からくる再生不良性貧血と告知される。

具体的な治療スケジュールと最低3ヶ月間の入院宣告。

日本テレビ系『24時間テレビ』、
『鳥人間コンテスト』の司会をキャンセル。

治療の過程の副作用の説明として、
脱毛、爪の黒色化、吐き気、骨髄抑制等が伝えられる。
横で立ち尽くす父親と、
優しく抱きしめて「一緒に頑張ろう」と声をかける母親。

私は、何を頑張ればいいのか、
何が大丈夫なのか全然わからなかった。

ただ、呆然としたままベッドの上に座り込んでいた。




7月27日(木)

どうせ抜けるならと長い髪を母親に切ってもらう。
仕事に邁進していた自分とのコントラスト、
華やかな芸能界で活躍していたはずの「理想」と、
ベッドの上で生活する「現実」のギャップに耐えられず、
度々母親に八つ当たりを起こす。

入院してからは、おしゃれなんて一つもできない。
すべて、治療に合わせて決められていき、
どんどん自由が奪われていった。




8月3日(木)

治療の副作用から骨髄抑制が進み、無菌室へ移動。
完全に隔離され滅菌消毒された病室の雰囲気に
孤独感・閉塞感を募らせる。

自分でも、感情のコントロールが
うまくいっていないことはわかっていた。
看病してくれる母に感謝はしていたけれど、
その気持ちをうまく表現できなくて、
自分勝手にふるまってばかりいた。

周りのことなど見えないまま、
私は自分の思いどおりにできない状況から
逃げ出すことばかりを考えていた。




8月24日(木)

(恐らく既に寛解期に突入)
本人に対して、はじめて正式な病名の告知がされる。
「当初は回復の見込みがはっきりしなかったが、
治療の効果があって危険な状態から脱したので告知した、
今は医療も進歩していて白血病も治る病気である」という
医者の丁寧な説明と、すこぶる元気な自分の体調からも、
自分は『治る病気』と信じて疑わなかった。

それでもやはり心は壊れているようで、
テレビを見るたびに置いてきぼりになった自分を痛感する。
かと言って見ないと社会からのけ者に
されているようで耐えられない。

周りを見れば見るほど、自分が辛くなることばかり。
それだったら、辛いことは見ないようにして、
自分にとっていいことばかりを見たり、
聞いたり、考えたりしたほうがいい。

私はだんだんと、どんなときも
一つの表情しか持たない「人形」のようになっていった。
自分の殻に閉じこもっているのに、
他人には元気そうに礼儀正しくふるまった。
他人に挨拶するときには、これでもかというくらい
元気なふりをして笑みを浮かべた。

でも、家族、特に母に対しては
むちゃくちゃ嫌な態度をとっていた。


同日夜、K-1選手のアンディ・フグが
急性骨髄球性白血病で死亡の報道。
自分の目を疑う。



8月25日(金)

朝から慌しい病棟内。
アンディ・フグ選手の訃報を受け、
医師・看護師が動揺する患者を落ち着かせるべく奔走する。

同じ白血病でも、私とアンディ・フグさんは違う。
私は治っているんだ。あとちょっとで、完治して、
退院して、仕事に戻れるんだ。
だから、先生も告知してくれたんだ。
仕事復帰まで、あともう少し。




9月下旬

無菌室からソフトクリーン室へ移動。
治療の経過が順調であることが窺える。

しかし深層心理では死と隣り合わせにいる
自分を感じており、毎晩悪夢にうなされた。
また芸能界の友人の活躍を耳にする度に、
落ちこぼれていく自分に対し焦りを感じていた。

体調が良くなるのと反比例するように荒む心。
当時の彼女は自分自身の心境を詩に綴った。


「Don't forget me」

ねぇ教えて・・・永遠の記憶を・・・

もしも私の光が消えたなら
誰が涙流すのだろう?
誰が悲しんでくれるの?
誰が想い続けてくれる?
ねぇ誰か 教えて・・・

いつの日か私の声も
忘れ去られてしまうのなら
情けなくても かっこ悪くても
歩いていたいと思った

あのころに戻れなくても 今ここに一人きりでも
永遠の記憶のために 乗り越えるから

愛する人よ 忘れないで
共に過ごした あの景色を
精いっぱいの この命で
この道を歩いていくから

愛する友よ 忘れないで
笑い合えた あの時間を
たとえ今は 会えなくても
再会の日は来るから・・・




12月20日(水)

退院。
今後の治療方法として「維持療法」と
「骨髄移植」の2案が提案される。

「維持療法」ではこれまでの治療と同じように
定期入院を6回繰り返して、化学療法を行う。

一方「骨髄移植」は化学療法・放射線治療の後に
骨髄のタイプが一致した人から骨髄提供を受ける。

そして母親と奇跡的にもHLA型がフルマッチであること判明。
これは極めて稀・・・というか本当に奇跡的なデキゴト。
単純計算で考えても日本国内に数組あるか無いか、
まさに数千万、数億分の1の確率。
ただでさえ兄弟以外の人とHLA型がフルマッチする確率は
数万〜数百万分の1なのに、それが実母と合致するのは凄い。
親子間の移植であれば、拒絶反応も少ないこと期待される。

医師は当然ながら骨髄移植を薦める。
その言葉を受け、椅子から飛び上がらんばかりに喜ぶ母親。
隣にいた父親も安堵の表情を浮かべる・・・。

しかし吉井怜本人は一刻も早く芸能界復帰を希望するが余り、
再度長期の入院を必要とする骨髄移植を断固拒否。
当時の吉井怜は白血病の完治よりも芸能界への復帰に対する
気持ちが遥かに大きかったのだ。

「私、移植手術はやらないよ」と言い返す。
母親は嬉しそうな顔から一転して複雑な表情となってしまう。

母親の表情の変化を見て〜

それに、私はまたムカついていた。

退院直後の感想〜

私の心は、あの入院した七月に置き忘れたままで、
仕事もプライベートも「あの日」から
始まるような気分だった。
忘れてしまいたい5ヶ月。
なかったことにしたい5ヶ月。
そうなったら、どんなにいいだろう。




12月21日(木)

退院翌日、週刊誌・スポーツ新聞等で一斉に
「吉井怜・白血病」報道がされる。
報道内容を見て、初めて白血病=がんであることを知り、
このときから急に白血病が恐ろしくなった。
本当に移植をしなくていいのだろうか?

生きる楽しさの形がはっきりしてくると、
同じスピードで死が恐ろしくなってしまう。


生への執着。
ここで初めて吉井怜は白血病のことや、
これからの治療のことについて積極的に調べ始めた。

心配してくれている母に何度も反抗していた。
その時の母の悲しそうな顔が今でも目に焼き付いている。
でもこれからは違う。私は白血病と向き合うために、
現実から逃げ出すのをやめたのだ。




第3回/白血病との闘い〜後編〜へ続く



尚、本文中の表現は抜粋部(斜字)を除き
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以上

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