揺れない心 ~Serene Hearts~
『揺れない心』を持つ人間になりたい。 2005年に急性骨髄性白血病を発病、骨髄移植の後に社会復帰を目指すも、敢え無く2007年初に再発、再移植。GVHDと格闘の日々を綴ります。
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2006年8月7日/管理人

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2007年3月5日/管理人

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2008年3月6日/管理人
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【BRAVE STORY】吉井怜編(2/4回)
第2回/白血病との闘い~前編~

連載第2回、ここでは吉井怜さんの闘病生活の中で、
発病から寛解導入、一時退院に至るまでの、
2000年7月から12月までの状況、心境変化等を紹介します。

芸能界入りして4年が経過した18歳の夏、
仕事もプライベートも順風満帆で走り出していた
彼女の青春時代に突如襲い掛かった病魔。
5ヶ月間に亘った入院生活、抗癌剤・副作用との闘いの日々。
多感な年頃にあった彼女が
入院生活を通じて何を感じ取ったのか。

様々な本音が綴られていました。
本文中で斜字表記されている箇所は
彼女の手記『神様、何するの・・・』からの抜粋です。
様々な局面における彼女の心情が適切に描写された箇所と思い、
独断と偏見で引用させて頂きました。



2000年
7月21日(金)


吉井怜、当時18歳。
グラビア・カレンダーの撮影で奄美大島ロケ中。
ロケ前から体調不良の自覚症状は感じていたものの、
朝、突如40度を超える高熱発症し、
現場付近の病院へ搬送される。

血液と心臓エコーの検査後、病院から点滴を勧められるも、
グラビア撮影という仕事柄、点滴は顔がむくんでしまう
という理由で仕事を優先するが為に拒否。
朦朧とする意識の中でプロ意識を見せる。

しかし結局撮影は中止され、夕方には奄美大島から帰宅。
夜中に突如痙攣と寒気を訴え、その直後には熱気を訴える。

何かが私の体の中で、確実に狂い出している。



7月22日(土)

夕刻になりまたもや40度を超える高熱と共に、
大量の発汗と発咳を発症、月曜に予約を入れていた
横浜市内の病院へ急遽救急外来で運ばれる。

即日検査入院。
週末の為詳細検査を行うことが出来ず、
週明けから精密検査を始めることとなった。

私は自分の病気を甘くみていた。
このときがいちばん辛くて、
あとは楽になるだけだと思っていた。




7月24日(月)

週明け、精密検査の開始。
父親経由で長期入院が必要であることを知らされる。
週末予定されていた『桃の天然水』のCMを含め
レギュラー番組の撮影もキャンセル。

私は大声を出して、泣きじゃくっていた。
人の目ばかり気にして弱みを見せることが
嫌いだったはずなのに、私は声をあげて泣き続けた。

(どうしよう。私のタレント生命が終わっちゃうよ・・・)

泣きながら頭に浮かぶのはそれだけ。
もう、ほかには何も考えられなかった。

その間も両親はずっと側にいてくれ、
顔をぐしゃぐしゃにして泣く私の手を
ただ黙って握っていてくれた。




7月25日(火)

本格的な入院生活へ突入。初マルク(骨髄穿刺)実施。
急性骨髄性白血病の告知が家族に対して成された。
家族の意向から本人には正式な病名は伏せられ、
骨髄造血不全症からくる再生不良性貧血と告知される。

具体的な治療スケジュールと最低3ヶ月間の入院宣告。

日本テレビ系『24時間テレビ』、
『鳥人間コンテスト』の司会をキャンセル。

治療の過程の副作用の説明として、
脱毛、爪の黒色化、吐き気、骨髄抑制等が伝えられる。
横で立ち尽くす父親と、
優しく抱きしめて「一緒に頑張ろう」と声をかける母親。

私は、何を頑張ればいいのか、
何が大丈夫なのか全然わからなかった。

ただ、呆然としたままベッドの上に座り込んでいた。




7月27日(木)

どうせ抜けるならと長い髪を母親に切ってもらう。
仕事に邁進していた自分とのコントラスト、
華やかな芸能界で活躍していたはずの「理想」と、
ベッドの上で生活する「現実」のギャップに耐えられず、
度々母親に八つ当たりを起こす。

入院してからは、おしゃれなんて一つもできない。
すべて、治療に合わせて決められていき、
どんどん自由が奪われていった。




8月3日(木)

治療の副作用から骨髄抑制が進み、無菌室へ移動。
完全に隔離され滅菌消毒された病室の雰囲気に
孤独感・閉塞感を募らせる。

自分でも、感情のコントロールが
うまくいっていないことはわかっていた。
看病してくれる母に感謝はしていたけれど、
その気持ちをうまく表現できなくて、
自分勝手にふるまってばかりいた。

周りのことなど見えないまま、
私は自分の思いどおりにできない状況から
逃げ出すことばかりを考えていた。




8月24日(木)

(恐らく既に寛解期に突入)
本人に対して、はじめて正式な病名の告知がされる。
「当初は回復の見込みがはっきりしなかったが、
治療の効果があって危険な状態から脱したので告知した、
今は医療も進歩していて白血病も治る病気である」という
医者の丁寧な説明と、すこぶる元気な自分の体調からも、
自分は『治る病気』と信じて疑わなかった。

それでもやはり心は壊れているようで、
テレビを見るたびに置いてきぼりになった自分を痛感する。
かと言って見ないと社会からのけ者に
されているようで耐えられない。

周りを見れば見るほど、自分が辛くなることばかり。
それだったら、辛いことは見ないようにして、
自分にとっていいことばかりを見たり、
聞いたり、考えたりしたほうがいい。

私はだんだんと、どんなときも
一つの表情しか持たない「人形」のようになっていった。
自分の殻に閉じこもっているのに、
他人には元気そうに礼儀正しくふるまった。
他人に挨拶するときには、これでもかというくらい
元気なふりをして笑みを浮かべた。

でも、家族、特に母に対しては
むちゃくちゃ嫌な態度をとっていた。


同日夜、K-1選手のアンディ・フグが
急性骨髄球性白血病で死亡の報道。
自分の目を疑う。



8月25日(金)

朝から慌しい病棟内。
アンディ・フグ選手の訃報を受け、
医師・看護師が動揺する患者を落ち着かせるべく奔走する。

同じ白血病でも、私とアンディ・フグさんは違う。
私は治っているんだ。あとちょっとで、完治して、
退院して、仕事に戻れるんだ。
だから、先生も告知してくれたんだ。
仕事復帰まで、あともう少し。




9月下旬

無菌室からソフトクリーン室へ移動。
治療の経過が順調であることが窺える。

しかし深層心理では死と隣り合わせにいる
自分を感じており、毎晩悪夢にうなされた。
また芸能界の友人の活躍を耳にする度に、
落ちこぼれていく自分に対し焦りを感じていた。

体調が良くなるのと反比例するように荒む心。
当時の彼女は自分自身の心境を詩に綴った。


「Don't forget me」

ねぇ教えて・・・永遠の記憶を・・・

もしも私の光が消えたなら
誰が涙流すのだろう?
誰が悲しんでくれるの?
誰が想い続けてくれる?
ねぇ誰か 教えて・・・

いつの日か私の声も
忘れ去られてしまうのなら
情けなくても かっこ悪くても
歩いていたいと思った

あのころに戻れなくても 今ここに一人きりでも
永遠の記憶のために 乗り越えるから

愛する人よ 忘れないで
共に過ごした あの景色を
精いっぱいの この命で
この道を歩いていくから

愛する友よ 忘れないで
笑い合えた あの時間を
たとえ今は 会えなくても
再会の日は来るから・・・




12月20日(水)

退院。
今後の治療方法として「維持療法」と
「骨髄移植」の2案が提案される。

「維持療法」ではこれまでの治療と同じように
定期入院を6回繰り返して、化学療法を行う。

一方「骨髄移植」は化学療法・放射線治療の後に
骨髄のタイプが一致した人から骨髄提供を受ける。

そして母親と奇跡的にもHLA型がフルマッチであること判明。
これは極めて稀・・・というか本当に奇跡的なデキゴト。
単純計算で考えても日本国内に数組あるか無いか、
まさに数千万、数億分の1の確率。
ただでさえ兄弟以外の人とHLA型がフルマッチする確率は
数万~数百万分の1なのに、それが実母と合致するのは凄い。
親子間の移植であれば、拒絶反応も少ないこと期待される。

医師は当然ながら骨髄移植を薦める。
その言葉を受け、椅子から飛び上がらんばかりに喜ぶ母親。
隣にいた父親も安堵の表情を浮かべる・・・。

しかし吉井怜本人は一刻も早く芸能界復帰を希望するが余り、
再度長期の入院を必要とする骨髄移植を断固拒否。
当時の吉井怜は白血病の完治よりも芸能界への復帰に対する
気持ちが遥かに大きかったのだ。

「私、移植手術はやらないよ」と言い返す。
母親は嬉しそうな顔から一転して複雑な表情となってしまう。

母親の表情の変化を見て~

それに、私はまたムカついていた。

退院直後の感想~

私の心は、あの入院した七月に置き忘れたままで、
仕事もプライベートも「あの日」から
始まるような気分だった。
忘れてしまいたい5ヶ月。
なかったことにしたい5ヶ月。
そうなったら、どんなにいいだろう。




12月21日(木)

退院翌日、週刊誌・スポーツ新聞等で一斉に
「吉井怜・白血病」報道がされる。
報道内容を見て、初めて白血病=がんであることを知り、
このときから急に白血病が恐ろしくなった。
本当に移植をしなくていいのだろうか?

生きる楽しさの形がはっきりしてくると、
同じスピードで死が恐ろしくなってしまう。


生への執着。
ここで初めて吉井怜は白血病のことや、
これからの治療のことについて積極的に調べ始めた。

心配してくれている母に何度も反抗していた。
その時の母の悲しそうな顔が今でも目に焼き付いている。
でもこれからは違う。私は白血病と向き合うために、
現実から逃げ出すのをやめたのだ。




第3回/白血病との闘い~後編~へ続く



尚、本文中の表現は抜粋部(斜字)を除き
管理人の個人的な感想を主としております。
表記方法に問題がある場合は、
対応させて頂きますのでご一報下さい。



以上

ミンナでワッショイ!!
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